秋田県能代市。“のしろ”と読みます。
わたしの生まれ故郷!わたしは、ふるさと能代が大好きです。
ルーツ・能代
私の誕生
私は、昭和 24 年(1949 年)11 月 2 日秋木工業株式会社の経理を担う父 齋藤善次郎、秋田県立能代北高等学校音楽科教諭である母セツ(旧姓:丹波)の長女として能代で生まれました。 母方の祖父は、丹波源一郎です。『日本基督教団能代教会』(通称『鍛冶町の教会』)を開拓伝道で創立した牧師です。父と母は教会で結ばれました。父には前妻の子ども「誠」がおります。父の前妻、キミは結核の為、息子を抱くことなく亡くなり、その為、誠は母方の水木家で祖母や叔母達に育てられました。 父、善次郎の東京転勤をきっかけに、家族4人が一緒に暮らすようになります。私が物心ついた時には家族4人の生活でした。兄と私は 7 歳違い。そんな複雑な事情を何も知らない妹の私に対して、とても優しい兄でした。小学5 年生の 9 月、名古屋で妹、明子が生まれ 5 人家族になります。
転勤族
転勤族父の転勤に伴い、あちこちに引っ越しをします。
昭和 24 年(1949 年) |
和子 11 月 2 日 能代市東住吉町で誕生 |
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昭和 27 年(1952 年) |
2歳半 春引越。父の秋木工業株式会社東京(深川)本社へ転勤(26 年 6 月) |
昭和 29 年(1954 年) |
5 歳 中野ナザレン幼稚園入園 |
昭和 31 年(1956 年) |
中野区立中野本郷小学校入学 |
昭和 34 年(1959 年) |
10 月 父、名古屋転勤 豊明市前後仙人塚社宅に住む。 |
昭和 35 年(1960 年) |
妹、明子誕生 |
昭和 37 年(1962 年) |
中学 1 年、愛知学芸大学(現、愛知教育大学)附属岡崎中学校入学 |
昭和 39 年(1964 年) |
6 月能代転勤 能代市馬喰町社宅に住む。 |
昭和 40 年(1965 年) |
高校 1 年、秋田県立能代北高等学校入学 |
昭和 40 年(1965 年) |
高校 1 年 7 月 父、東京転勤 杉並区成宗に住む。 |
昭和 43 年(1968 年) |
大学 1 年、東京学芸大学 D 類音楽科作曲専攻入学 |
昭和 44 年頃(1969 年頃) |
父、本社より子会社「秋木プライフローリング」へ出向。 |
昭和 46 年(1971 年) |
多摩川住宅ト号棟に引越。 |
昭和 47 年(1972 年) |
8 月 父、善次郎 退社。昭和 14 年秋木機械製作所に入社して以来、33 年間の秋木生活を閉じる。 |
昭和 49 年(1974 年) |
24 歳、9 月和子結婚(飯田敏彦と)により、実家を離れ、杉並区方南町に引越。 |
私が能代で暮らしたのは、合計3年8ヶ月だけです。
・生まれてから2歳半まで
・中学3年6月から(能代第一中学校)、高校1年8月まで(県立能代北高校)
それでも「あなたの故郷は?」と問われたら、迷うことなく「能代」と答えます!
私 飯田和子は2020年「能代ふるさとPR大使」に就任いたしました。
このページでは、能代のことや、私のルーツについて等、東京からみなさんに紹介していきます!!
能代って どんな町?
世界遺産「白神山地」が北方に広がり、米代川が東から西へ日本海に向かってとうとうと流れ、その河口に広がる平地に栄えた町です。山あり川あり海あり美しい景色!昔は木材の集散地として栄えに栄え、能代港から船で全国に運ばれました。
昨今は、田臥勇太を輩出した秋田県立能代工業高校がある「バスケの町」として有名になりましたが、
そもそもは、この町の発展は秋田杉の産地を活かした地場産業「アキモク」と密接に絡んでいます。
私の父、齋藤善次郎
1912 年(大正元年) |
12 月 7 日に秋田県秋田市土手長町で齋藤豊治・トミの次男として誕生。 |
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1930 年(昭和5年) |
県立秋田中学(現、秋田高校)を卒業。秋田銀行本店調査課入社。 |
1932年(昭和 7 年) |
秋田銀行能代支店転勤、能代に住む。 |
1933年(昭和 8 年) |
能代教会にて、ジョージ・ノッス宣教師より受洗。 |
1939 年(昭和 14 年) |
秋田銀行を退社。 |
1951 年(昭和 26 年) |
「秋木工業株式会社」経理のエースとして、本社(深川)移転と共に東京転勤。 |
1959 年(昭和 34 年) |
「秋木商事株式会社」名古屋支店へ転勤。やがて支店長となる。 |
1963 年(昭和 38 年) |
10 月、秋木工業株式会社能代分室長転勤 能代へ。 |
1965 年(昭和 40 年) |
7 月 秋木工業株式会社東京本社経理部副部長 |
1967 年(昭和 42 年) |
11 月東京本社取締役経理部長 |
1970 年(昭和 45 年) |
7 月、田沢湖「秋木プライフローリング」常務取締役 |
1972 年(昭和 47 年) |
8 月 退職 |
会社の運命と共に生き抜き、まさに秋木と共に昭和の歴史を生きてきました。
1995 年(平成7年)6月12日虎ノ門病院にて召天(82 歳)。
教会生活は、日本基督教団能代教会の会計長老として奉仕、小さな教会の戦前戦後の財政を支えました。
会堂建築には大きく貢献できたことを誇りとし、能代を離れてからも、狛江教会、日本橋教会に出席しながら母教会を支え続け、晩年はカルチャー講座の「北森嘉蔵講座」「加藤常昭講座」「松永希久夫」講座を受講。
また、武蔵野園芸センターの経理事務を半ば趣味として務めました。
木都・のしろを支えた『アキモク』
明治40年4月10日井坂直幹氏により設立された「秋田木材(株)」通称『アキモク』昭和 18 年「秋木工業株式会社」となり、東洋一の木材合板工場を持ち、一部上場会社として全国にその名を轟かせました。わたしが小学校で使った社会科の教科書には写真入りで秋木工場が掲載されていました。しかし木材産業がカナダなどからの輸入材に抑されて下火になるにつれ、寂れていき、能代の地場産業として影が薄くなり昭和57年11月会社更生法適用申請を出すにいたり、昭和59年11月1日に「新秋木工業株式会社」と名前だけは残して新しくなり、昭和59年に創立100周年を祝いました。
https://s-akimoku.co.jp/about
現代の「木都・のしろ」!!
営林署の方々の働き、市民の方々の「木」に対する愛情から、現在、町のアチコチでいろいろなイベントが開催されています。 そのひとつが、「ときめ木」マルシェ!!
~~能代市上町 「夢工房咲く咲く」前ストリート で開催~~ 木材の粉を練り込んだパンやお菓子など、市民のみなさんが工夫に工夫を凝らした、思いもよらないクリエイティヴな開発グッズがマルシェに並びます!
木材に関係ない、素敵グッズや、オモシログッズ、美味グッズなど、採れたて野菜や、食料品等々・・・たくさん並びます。 創リ手と使い手の、出逢いの広場としても機能!生活がアートになる場所です。
風の松原
海側には、《風の松原》と呼ばれる
日本最大の規模を誇る松林が拡がります。東西 1 キロメートル、南北 14 キロメートル、面積 760 ヘクタール。
(東京ドーム 163 個分)厳しい飛砂を防ぐために江戸時代から 300 年もかかって植栽されてきており、いまや 700 万本もの美しい松林になりました。海風から町を護っており、美しい公園はオゾンいっぱい!
風の松原前の広大な墓地
ココに、日本キリスト教団能代教会の墓地があり、私の両親も祖父母も眠ります。
父、 齋藤善次郎 母、せつ(旧姓、丹波) 祖父、丹波源一郎 祖母、丹波ひで
五能線
能代から青森県川部駅に向けて、全長 147.2 ㎞。日本海の絶景、海岸線をギリギリに走る鉄道!
奇岩に打ち寄せる波や世界自然遺産白神の山々など、美しい風景を満喫できます。
鉄道ファンに大人気のローカル線です。
日没の太陽が海に沈む絶景や、流れ星がたくさん見える夜空!!ロマンがいっぱいです。
十二湖までなら、日帰りで素晴らしい体験ができますよ。
十二湖の「青池」
能代七夕「ねぶながし」
能代の誇り 1世紀の時を超えて復活
世界自然遺産・白神山地の街、秋田県能代市。
ここには、古くから続く、伝統的な夏の七夕行事があります。
文献によると、天保時代には高さ五丈八尺(17.6m)、幅三間四方(5.4m)もある灯籠を夜明けまで引き廻したそうです。しかし、電気の普及とともに電線が街中に張り巡らされ、その高さは約 7~8mに制限されました。 平成 24 年、能代市 101 号線の電線地中化が完了したことにより、かっての大型灯籠を復活させようという試みがなされました。
~私たちのまち「能代」を元気にしたい~ そんな一心で平成 25 年、1 世紀の時を超え「天空の不夜城」五丈八尺の「嘉六―かろく-」が能代の街にそびえ立ちました。
平成 26 年には、高さ 24.1mの城郭型灯籠が完成。日本一の高さを誇ります。
★「七夕祭り」は毎年 8 月 7 日の少し前に催されます。
城郭を模した大型灯籠が町を練り歩き、篠笛と太鼓のお囃子が町中に響きます。
★最終日には、その灯籠を、船に乗せて米代川に流す「ねぶながし」が、哀愁を帯びた篠笛の音色に送られてなされます。火を放たれて水面にゆれる光と影の美しさ。
篠笛のメロディと太鼓の静かなリズムが、また切なく切なく米代川河原に響きます。
私にとっては、本当に「世界に誇りたい!」祭りです。近年規模が縮小してきたのはとても残念です。
東北三大祭りばかりがもてはやされますが、私は、能代の七夕が大好き!!ぜひ、全国のみなさんに観ていただきたいです。
ちなみに、東京学芸大学音楽科作曲専攻学生だった私は、卒業作品に能代七夕をテーマにしたピアノ組曲を作曲しました。
ピアノ組曲「NOSHIRO」
Ⅰ、序 Ⅱ、能代七夕祭り道中 Ⅲ、ねぶ流しの夜 Ⅳ、冬 Ⅴ、白神山地・春の鼓動 (1972年3月初演)
能代公園
能代市の全貌を見渡せる素晴らしいスポットが海近くの高台にある「能代公園」です。
桜の季節やツツジの季節には、花でいっぱい。米代川が海に流れる河口や、拡がる平野と町の姿。白神山系の山々の連なりが一望に臨めます。景観のスケールは大きく、心が癒やされ、気持ちが自然の中に溶けていきます。
能代は「平和都市宣言」の市です。 能代公園には「平和の碑」があります。
私の友人、澁谷圭子さんが「北羽新報」に寄稿された記事をここに紹させて頂きます。(クリックで拡大してご覧ください)
丹波望・・「丹波センセ!」
能代市民のみなさんからそう呼ばれているのは、私の叔父です。母の末弟です。
能代でこの名を知らない人はいないくらい、人々の為に沢山の働きをし、社会貢献をしてきました。
叔父、丹波望
1934 年 2 月能代生まれ
秋田県能代港町キリスト教開拓伝道に派遣された牧師の三男として生まれる。
父・丹波源一郎(横手出身)、母・ヒデ(土崎出身)
県立能代南高校卒業、国際キリスト教大学(ICU)第 1 期生。開学と共に入学した記念すべき学生です。
正しくは 1 年前に上京しましたが、大学の準備が整わず 1 年待たされての開学!ですから本人は「我らゼロ期生!」と言います。大学ではアメリカ留学から帰った日野原重明氏の講義を受けています。
1957 年 3 月国際キリスト教大学教養学部卒業後、東京神学大学に進み大学院修士課程修了。母教会である日本キリスト教団能代教会の招きを受け、父の許で副牧師に就任、後に牧師になります。
後に「地の塩塾」と命名する英語教室を開き、教育活動を開始。その後、1973年「能代地域全体の牧師になる!」と牧師職を辞任。教会を出て、地域の牧師&教育者として真実を育む社会教育を実現させる為に頑張ってまいりました。
1975年専門学校「能代文化学院」学院長就任。初期は英語教育、近年はパソコン、簿記、介護などの能代地域のニーズに合わせた教育の場を運営し、1998 年「秋田しらかみ看護学院」を創立し初代学院長に就任。「地の塩塾、市民講座」として、東京からも日野原重明氏をはじめ沢山の文化人、知識人を招いて講演会を企画し、能代地域の社会教育を担い、沢山の若者を育てて参りました。
叔父の薫陶を受けて社会で頑張っている“生徒”が日本中にたくさんいます。
そんな叔父の頑張りに、母校の国際基督教大学同窓会から映えある賞が贈られました。
2014 年【第 9回 国際基督教大学同窓会 DAY Award 賞】受賞!世界で頑張っている卒業生に対して、毎年数人ずつ贈られます。
これまでの受賞者は、上野多鶴子(言語学博士)、大宅映子(評論家)、平田オリザ(劇作家)、吉野直子(ハープ奏者)、小山修三(考古学者)、山野政光(山野楽器 CEO)、有馬利男(フジゼロックス前社長)、菊地明郎(元筑摩書房社長、金澤正剛(音楽学者)、高村薫(直木賞作家)、渡邊真理(フリーアナウンサー)、ジョン・カピラ(ラジオパーソナリティ)・・・・など多岐に亘ります。
叔父の受賞にあたっての文章が見つかりました。
国際基督教大学同窓会【2014DAY Award】受賞にあたって。
(Distinguished Alumni of the Year)
叔父が全財産を注ぎ込み、能代市民に寄付を呼びかけて、草の根運動で創立した「秋田しらかみ看護学院」
叔父の立てた理念が息づいています。
田舎の小さな看護学校にもかかわらず、看護士の国家試験で全員合格を何回も勝ち取った素晴らしい学舎です。
北羽新報
(クリックで拡大してご覧ください)
現在
叔父は自身の仕事の他に、下に羅列するほど沢山の使命に生きてきましたが、80 代半ばをとうに過ぎており、人生のまとめの季節を迎えています。
社会福祉法人「鷹巣地の塩会」理事長
「秋田 9 条の会」代表委員
「秋田宗教者 9 条の会」事務局代表
「能代まちなか 9 条の会」代表委員
NPO 法人「声なき者の友」理事
(自死対策)「はまなすネット」会員(顧問)
しかし、日本基督教団所属の正牧師(牧師)としての働きは、命ある限り続きます。
私の母、齋藤セツ(旧姓 丹波)
1920年(大正9年) |
酒造業を営む丹波源一郎・ひでの次女として、横手市鍛治町26 番地に誕生。 |
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1922年(大正11年) |
父、源一郎は酒造業を弟に託し、2月15日「出家」!東北学院大学神学部入学 |
1925 年(大正14年) |
父、4月24日日本キリスト教会東北中会の派遣により能代港町へ開拓伝道に赴き、能代伝道所開設。横手より家族全員 能代に引っ越し。 |
1932年(昭和7年) |
能代渟城女子尋常小学校卒業 |
1936年(昭和11年) |
秋田県立能代高等女学校卒業 |
1940年(昭和15年) |
宮城女学校専攻部聖書科卒業 |
1942年(昭和17年) |
日本開戦の為、リフォームドミッション引き上げの為、能代へ帰る。 |
1947年(昭和22年) |
秋田県立能代高等女学校音楽科教諭 |
1948年(昭和23年) |
齋藤善次郎と結婚(10月30日) 息子、誠5歳 |
1949年(昭和24年) |
長女、和子誕生 |
1952年(昭和27年) |
善次郎東京転勤に伴い、能代北高等学校を依願退職。中野区宮里町社宅に暮らす。 |
1959年(昭和34年) |
11 月、夫転勤に伴い、愛知県豊明市前後仙人塚に引っ越し。 |
1960年(昭和35年) |
次女、明子誕生 この頃より「齋藤セツ オルガン教室」始める。後にピアノ購入。 |
1964年(昭和39年) |
6月夫転勤に伴い、秋田県能代市に引っ越し。 |
1965年(昭和40年) |
7月夫転勤に伴い、8月東京杉並区成宗に引っ越す。 |
1968年(昭和43年) |
調布に家を購入し、調布市多摩川住宅に引っ越す。日本基督教団狛江教会に出席する。 |
1970年(昭和45年) |
「社会福祉法人いのちの電話」カウンセラー認定を受ける。 |
1971年(昭和46年) |
10月「東京いのちの電話」発足、230人のボランティアカウンセラーの内の1人 |
1971年(昭和46年) |
多摩川住宅ハ号棟からト号棟へ引っ越し。 |
1976年(昭和51年) |
「いのちの電話」スタッフ、ヘッドカンプ先生とドイツへ感謝旅行 |
1982年(昭和57年) |
「いのちの電話」ドイツ旅行に夫、善次郎と共に参加。 |
1986年(昭和61年) |
江戸川区西葛西に引っ越し。日本基督教団日本橋教会に出席する。 |
1988年(昭和63年) |
明子家族がやってきて同居が始まる。 |
1990年(平成2年) |
「いのちの電話」ボランティアカウンセラー活動引退。70 歳(20年継続) |
1995年(平成7年) |
夫、善次郎 82歳で召天 |
1998年(平成10年) |
日本基督教団小松川教会に転入会。 |
2000年(平成12年) |
南ドイツオーバアマガウでの「受難劇」と聖地イスラエルをめぐる旅 |
2015年(平成27年) |
10月31日 自宅にて和子、明子に看取られて 召天(95歳) |
2001年5月
花巻旅行にて、81歳
入院の病室で「讃美歌」弾き 語りを楽しむ母
私の祖父、丹波源一郎
私の能代との接点は、祖父、丹波源一郎がキリスト教の伝道の為に、能代に入り、日本基督教団能代教会(現在の名称)を創立したことから始まります。
「おじいちゃん」は私にとって、《偉大な人》です。
東京都の教員採用試験の面接カードに「尊敬する人」の欄があり、大学4年生のわたしは、迷った末、丹波源一郎(祖父、牧師)土田貞夫(哲学者、音楽美学)と、2人の名前を書いたのをはっきり覚えています。
1891年(明治24年) |
10月30日 横手市鍛治町26番地にて、酒造業を営む丹波春吉・イヨの長男として誕生 |
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1909年(明治42年) |
秋田県立横手中学校を卒業(第6期生)卒業と同時に家業酒造業に従事 |
1915年(大正4年) |
松本ヒデと結婚。 |
1916年(大正5年) |
長女アイ誕生 |
1918年(大正7年) |
長女アイ没(2.15) |
1920年(大正9年) |
次女セツ誕生(2.29)・・・※私の母です! |
1922年(大正11年) |
福音の心理に生きるべく、全てを捨てて「出家」(2.15) |
1923年(大正12年) |
父、春吉 63 歳で没(3.25) |
1925年(大正14年) |
東北学院神学部卒業(第27期生) |
1929年(昭和4年) |
四女ミクニ誕生即日没 |
1934年(昭和9年) |
三男望誕生(2.28) |
1935年(昭和10年) |
能代伝道所が能代伝道教会となり、主任者に就任。 |
1940年(昭和15年) |
能代市鍛治町に土地を求め移転。能代教会牧師館(兼仮礼拝堂)を建設 |
1941年(昭和16年) |
プロテスタント系諸教派合同により「日本基督教団」成立。戦時体制に入る。 |
1944年(昭和 19年) |
4月より1945(昭和20)12月まで、動員令により能代市役所書記として勤務。 |
1946年(昭和21年) |
母イヨ没 79歳(9.10) |
1949年(昭和24年) |
能代教会礼拝堂を献堂(12 月) |
1969年(昭和44年) |
主任牧師職退任77歳(3.31) |
1979年(昭和54年) |
妻、ヒデ召天 84歳(8.22) |
1987年(昭和62年) |
召天 95歳 あと13日で96歳の誕生日だった。(10.17) |
祖父の人生は、ドラマのようです。
1 人の人間が、何を見つめ、何を求め、何をなしたか。
孫の私はほんの一部しかわかりませんが、祖父亡き後、叔父丹波望がまとめた本『「夕映えの詩」~丹波源一郎追悼~』を読むと、96 年間の生涯が少しは理解できたような気持ちになります。
「おじいちゃん、ありがとう!!」
神様の創造された計りしれない生命の連鎖の物語!
「能代」は、わたしにとって、その原点です。